思念の滝壺

山に登る。

【感想】すずめの戸締まり ー今を生きる辛さに向き合うー

新海誠監督の最新作、『すずめの戸締まり』を観てきた。もちろんIMAXで。

全てひっくるめた感想を最初に言うなら、最高傑作という触れ込みに恥じない素晴らしい映画だった。『君の名は。』『天気の子』から一つステージが上がった感すらある。

以下でつらつら長めの感想を述べていく。ネタバレは大いにあるので注意。入れた知識は映画本編だけ、パンフレットは後で読む。

恋愛映画の枠を超える

前2作では、舞台装置としてSF要素が組み込まれてはいるものの、大枠はボーイミーツガール/青春恋愛映画で、その中に監督の性癖がさりげなく発揮されるような内容となっていた。

それが今作では打って変わり、主人公すずめが自身の過去と未来を受け止め成長する物語となっている。恋愛要素はあくまでさりげなく、でもすずめが成長するためのキーの一つとして描かれている。(監督ここまで性癖を抑えて大丈夫か、満足できているのか)

監督の満足は脇に置いておくとして、この抑制はこの映画にすごく有効に働いたと思う。後述するが、本作の「SF要素」は、前2作と異なって現実世界と極めて密接にリンクしており、硬めのストーリーテリングをすることは必要不可欠だっただろう。この内容でパンチラとかやってたらちょっと顰蹙を買いかねない。

その効いた抑制と作品テーマ・重要なシーンを除き静かな印象を受ける劇伴(お約束と化していたRADWIMPSの歌唱はエンドロールの入りでしか流れない)をトータルで見たときに、「厳かな映画だ」という印象を受け、切なくも希望をたたえた何とも言えない気持ちを抱えながら劇場を後にしたのだった。

でもすずめは大変かわいい

驚いて状況に振り回されているのが似合う魅力的なヒロイン(物語の役割ではヒーローだが)。

そして草太も大変かわいい

第一印象はクールだが、実は割とドジでお茶目で向こう見ずに突っ込んで行っちゃうタイプのヒロイン。真面目な勉強家でもあり非常に良い男。

本作ではヒーロー/ヒロインの男女関係が逆転している。

震災に向き合うこと

物語を通してすずめが向き合った過去とは、3/11東日本大震災により母親を亡くしたことであった。

私は日本海側出身で、津波の被害を直接受けていないために今回の映画を受け止めることができたが、実際にすずめと同様の災厄を経験した人にはきついかもしれない。作品自体が、それだけ正面から震災に向き合っていた。

すずめは、当初の目的として日本各地の廃墟を回り、かつてそこに住んだ人々の思いを受け止めていくのだが、被災地域で受け止めた思いが、3月11日当日に「行ってきます」といって二度と戻らなかったたくさんの人々の姿だった。この映画で最も目に焼き付いたのがそのシーンである。すずめが過去を受け止め、最後に後ろ戸を閉めるときの言葉が「お返しします」ではなく「行ってきます」であったことも含めて、ポスターのキャッチコピーが「行ってきます。」であることの意味を否応なく納得した。

前2作の反省?

このような作品内容になった背景には、前2作に対する反省もあるのではないかと推察している。

君の名は。』のティアマト彗星も『天気の子』の東京に降る雨も、災害のもたらす理不尽、そこで失われる命と生まれる悲しみにはあまり触れず、主人公らが劇的に惹かれ合うための単なる舞台装置として用いていたきらいがあった。

本作ではすずめが経験した震災は舞台装置などではなく、過去から未来に渡って影を落とす巨大なトラウマであり、草太との旅を通じて乗り越えなければならなかった障害である。

モチーフが扉であることの意味

家を出て二度と戻らなかった人が、開けたままにした扉を閉めていくことで、人々がそこに残していった思いを受け止め、鎮める、ということか。

すずめはどうやって過去を受け止め、成長したのか

映画冒頭が、幼少期、震災直後に母を探す夢からすずめが覚めるシーンであり、夢から覚めた第一声が「お母さん・・・?」であることからしても、当初は母を亡くしたトラウマが色濃く残っていることがうかがえる。これを、椅子に変えられてしまった草太を助けるという名目で始まった旅を通して乗り越えていったのだが、キーは主に以下となっている。

  • 草太に一目惚れし、草太がほっとけない性格であることも含めて旅に一緒に出て、絆を深めたこと。(=好きな人ができたこと)
  • 旅を通じて、たくさんの土地のたくさんの人々と関わり、心を通じ合わせたこと。(=自分を好きになってくれる人がたくさんできたこと)
  • 自分を愛して育ててくれた叔母と、でも残っていたわだかまり、それを旅に起因する衝突によって真に和解する
  • 廃墟の戸締まりを通じて、その地にかつての人々が残した思いを受け止めたこと。そこには東日本大震災も含まれる。
  • これらを通じて「自分は生きていける」という自信を得るにいたったすずめ自身が、過去の母を探す自分を励まし、いわば自分自身で自分が立ち直るためのきっかけを作る

恋愛が「一要素」にまで縮小されているというのはこういうことである。ただし、重要な役割を果たしてはいて、旅に出るきっかけはそもそも草太を好きになったからだし、草太を助けるために「自分の命を投げ出すことも厭わない」とすら発言していた投げやりですらあるすずめは、草太を要石状態から救おうとしたときに聞いた「こんなところで死にたくない、すずめにも会えたのに」という思いに間違いなく影響され、変わっているだろう。

旅を通した各地での交流はロードムービーに描かれていて、軽快なテンポとコミカルなシーンの連続が観客を飽きさせない。途中で『ルージュの伝言』を「車内で流していた曲」という名目で合法的に(?)流していたのが面白かった。全体的にどことなくジブリリスペクトみを感じる本作でもある。(きわめて強引にこじつけるなら廃墟は千と千尋、ミミズはデイダラボッチ。ルージュの伝言魔女の宅急便)

脚本マジック、それはちょっとずるくないか

すずめが要石を意図せず解放してしまい、ミミズが活性化してしまう、戸締まりのキーマンである草太は椅子(ひいては要石)に変えられてしまい役目を果たせなくなり、すずめが同行する必要が出てくる、という流れですずめは戸締まりの旅に出る。

道中で都合よくミミズが出る廃墟に出くわして戸締まり、を繰り返すが、これは元要石の神にしてネコ「ダイジン」(右大臣)が誘導した結果だった。もう一つの要石(左大臣)も役目を果たさなくなってしまい、関東大震災に匹敵する災害を抑えるため、すずめはやむなく要石と化した草太を使わざるを得なくなるも、最終的にはすずめは草太を要石状態から救い出し、右大臣・左大臣もそれに協力して彼らは結局要石に戻る。結果的には草太は無事で要石も戻り、見ようによってはご都合エンドである。

正直に言ってダイジンらの行動原理が全く理解できない、なぜ要石を止めてまた要石に戻ったのか、謎ではあるのだが、作中で「神は気まぐれ」なる発言(草太の祖父)があり、「それで全部説明できてしまうじゃないか!それはちょっとずるくないか!」といまいち腑に落ちないところがあるのだった。

ダイジンはすずめにバブみを感じてオギャっていたのか?

まあダイジン(白いネコの方)は作中で動機が推察できるようにはなっている。すずめに付きまとうようになるのは、そもそもすずめが最初に餌をあげて招き入れてからのことだし、最後に「僕はすずめの子にはなれなかった」旨の発言をして要石に戻っている。文字通り捉えるなら、ダイジンはすずめにバブみを感じてオギャっていたのか?問いただしたいところである。

なんだろうね、神でも自分を愛してくれる存在は大事なのかね。すずめが招き入れてくれて嬉しくなってつきまとい二人きりになるために草太を排除し、すずめの目的に沿うように後ろ戸に誘導していったけど、その結果すずめの意に添わぬことをしてしまっていたと知り、失意のままに、でもすずめのために要石に戻った、と理解するのが一番しっくりくるか。

圧倒的なアニメーションと背景美術

凄まじすぎる。

背景美術が狂気を感じるレベルで美しいだけでなく、アニメーションや構図・カメラワークも極めて高い絵の説得力を生んでいたような気がする。そんな少しの粗が目立ってしまうようなアニメーションの中に違和感なく溶け込めている3DCGもレベルが高いと思う。

音楽に関して思ったこと

オーケストラの劇伴が作品の厳かな雰囲気を高めていて大変良かった一方で、エンドロールに入ったときに流れた野田洋次郎氏ボーカルの曲はどうしても浮いている印象を受けてしまった。前2作では作品の雰囲気がもうすこし軽快で若かったために、RADWIMPS歌唱の音楽はむしろ新鮮な印象を与えてプラスの相乗効果を生んでいたと思う。が、本作はそうでないためか、曲が流れだしたときに噛み合わない感じがしたのだった。一方で作曲はRADWIMPS、ボーカルが別の『すずめ』(エンドロール後半で流れた曲)は滅茶苦茶良かった。

総括

すずめのような過酷な境遇ではないし、むしろ不自由なく育ててもらってきた身である。だが、既に過ぎ去ってしまったもう変えられないことを受け止め、何が起こるか分からない未来を、そしていつか来る死を待つのは辛いことだ。その、人間に生まれた以上は向き合わなければならない、どうしようもない苦しさに、この映画は寄り添ってくれた。大好きである。以上!

 

 

 

(12/4 追記)

もう一度観てきたうえで、パンフレットと新海誠本・新海誠本2も読んだ。2回目の鑑賞で初めて感じたこともあれば考えの改まったこともあり、また疑問の答え合わせもあった。それらをここに追記しておく次第。

ダイジンらの動機・再考

ダイジンの「僕はすずめの子になれなかった」発言が引っかかっていたが、改めて観ると、すずめが彼を家に招き入れる際に「うちの子になる?」と聞いていた。すずめの発言に対するそっくりそのままのアンサーだったわけである。これでダイジンの方は腑に落ちた。

ちなみに、すずめと叔母・環の口論の際に、「環さんがうちの子になれって言ったんじゃん」という旨のすずめの発言にダイジンが反応するカットがある。そうだよな、ダイジンからしたらそれは重要なワードだよな。

一方で左大臣の動機であるが、これは新海誠本2に部分的な答えがあった。要石の彼らだけではミミズを鎮められず、人との共同作業が必要不可欠であるらしい。すずめに手伝ってもらう必要があり、そのためにはすずめに叔母との軋轢を解決し、人として成長してもらわなければならなかった。そうして初めて、もっと大きい人間全体の問題に向き合えるから。だから、要石状態を一度脱してでもすずめのもとに赴き、叔母に憑依して口論を起こしたということらしい。

そのうえで、すずめと草太という人たちの手によってもとに戻されることによって、真の意味で土地を鎮めることができた、というわけである。

ダイジンが草太を椅子にした必然性

その文脈でいえば、ダイジンが草太を椅子に同化させたのは、「いつの間にか大事にしなくなっていた、母に作ってもらった椅子」と「今大切な存在である草太」を同一視してもらうことで、すずめに過去を見つめ気づきを得てもらうためだったのかもしれない。

メタ的に言えば、椅子のコミカルな動きをアニメーションに取り入れたかったからで片付いてしまうが、こじつけるのも鑑賞の楽しみだろう。

運命論的タイムトラベルの新しい使い方

タイムトラベルを創作で扱うときには、複数の解釈が存在しうるが、本作では運命論的な解釈を採用している。つまり、過去のすずめが未来のすずめと合って励まされた時点で、劇中で描かれたできごとの全てが確定しているという解釈だ。

この解釈は、ともすれば「我々の力では未来を変えられない」みたいな絶望・諦観と結び付けられやすい。実際、最近の映画で運命論的時間遡行を映画の主題として取り扱った『TENET』にはそういう雰囲気が満ちていた。

ところが、本作は、その「決まっている未来」という考えを、すずめが再び立ち上がって生きるための希望として用いている。改めてこれに思い至ったときにはたまげた。とんでもないアクロバットだ。そう、「あなたは幸せになれる。あなたは光の中で大人になっていく。そういうふうにできている。だから前を向いて」という希望に満ち満ちたメッセージ、一種の信仰の力をまさかまさかの運命論的時間遡行から引き出しているのだ。

『カナタハルカ』について

最初の鑑賞ではそぐわない感じのしたエンドロール入りに流れる『カナタハルカ』であるが、今回は翻って「ここに必要な曲だ」と感じたし、一種心地よい感覚で聴いていた。

本編が長い間息の詰まるような苦しさを感じながらエンドまで駆け抜けるので、その苦しさから効果的に解放され、爽やかに希望を持って映画を観終えるために最適だったのかもしれない。

たぶん、最初に観たときに拒否反応が出たのは、唐突に襲い来たあまりに違う質感の曲にびっくりしたという点もあるだろう。それと、息の詰まるような苦しさにあえて最後まで浸かっていたかったのだ。たぶん、それが一番大きい。

今回一番印象に残った言葉

すずめが過去の自身を励ますために発する言葉の一節「あなたは光の中で大人になっていく」

なんて祝福に満ちた言葉だろうか!